日々の雑感、他愛ないこと。印のように記してみたり。日々の呼吸を此処に。 忍者ブログ

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クリスマスが近づく頃になると


 台所の壁には年中掛かったサンキライのリース。余っている椅子の上に新たに置かれたクリスマスツリー。冷蔵庫にはうさぎのマグネットで止めた苺のケーキの予約表。

 拾弐月になると思い出す。或の頃とうさんは養豚業をしていたから、親戚への歳暮代わりに豚をまるごと壱匹用意していたものだった。物置に吊るされた豚は子供の自分には呪いか何か少し怖いものに想え、また其の頃肉が喰えなかったり、猫が騒ぐので壱番猫になつかれていた自分が猫の見張り役をしていたりして、豚をいつも少し離れたところから見ていた。
 とうさんの育てた豚をあたしは壱度か弐度か口にした覚えがなく、味は全く憶えてないけれど、おいしかったのではないだろうか。何せ神経質な父が育てる豚は余所で見る泥や汚物で真っ黒になった豚と違い、綺麗な薄紅色をしていた。少なくとも臭みはなかったろう。親戚の者がやってくると、井戸のところに吊るしてあった豚を寝かせ、其々好きなだけ肉を切り落とし持って帰っていったのを鮮明に憶えている。壱番後でやってきた者が此の部分しかないと口を尖らせていたことも、早く来ないからだと誰かが笑っていたことも、ちゃんと憶えている。そして何より、後日彼らから歳暮代わりに届いた品物の中に大抵クリスマスケーキやサンタクロースの長靴があり、其れを何故か自分が独り占めしていたことを憶えている。きっと御飯も食べずに甘いものを食べていたのも、また其れが許されたのも、自分だけだったのだろう。

 内向的で思考して遊ぶことが好きだった子供だったからだろうか。どうも記憶していることが他人より少ないようだ。だから余計なのだろうか。クリスマスが近づく頃になると、あたしを突くやわらかな記憶が可愛い。

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夢のような出来事


 下北沢まで出掛けるのがだんだん辛くなってきたと思い始めたときだったので、今回のツアーに電車で数拾分の町の名をみつけたときは安堵した。
 どんなライブハウスだろうと小さなカメラを持っていったけれど寫眞に収める必要は無かった。嬉しかったのは客を入れるとき、大抵は拾人づつ入れるのに、壱番づつ番号を呼びひとりづつ客を入れてくれることだった。もう弐度と行くものかと想い今でも前を通る都度中指を立てるライブハウスは、客の入れ方が気に入らなかった。壱番の番号だったから余計そう想う分差し引いても余る。ざーざーと素麺でも流すように客を入れていたし、チケットを見るだけで番号の確認はしていなかった。観たい人が間違ってまた来てしまったら、観たい人がやってきてしまったら、来て欲しくないと手紙を出すかもしれない。ステージもうんと廣く、其れを見てなんとなくうんと愉しい夜になりそうだと想っていると、本当にそんな夜になった。
 何度も笑う彼を見るのは初めてだった。こんな日に壱番前で見られたのは幸いだった。そして自分にとり極めつけだったのは、初めて彼が日本のロックバンドのナンバーをカバーするのを聴けたことだった。其れが「世界の終わり」、ミッシェル・ガン・エレファントの楽曲だった。HARRYがひとりで鳴らす或のギターの音はそれはそれは恰好よかった。
 夢のような数分間に立ち会える。そう云うことで人は生きていけるのだろう。そして、大人になってよかったとか、齢を喰ってよかったとか、想うものでもあるだろう。
 あなたが壱番好きなものは、と問われたら、今はきっと自身の記憶と応えるだろう。

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手アイロン


 だんだん手が冷たくなってきたのにつれ、洗濯物を干す時間まで暖房をするようになった。どうしてもアイロン掛けが好きになれず、シャツやタオルの皺を手押ししてとるようになり久しい。パジャマだけでなく自分用のタオルは殆どがガーゼのものだから皺ができやすい。其れを毎日アイロン掛けするのを面倒と想ってしまう。それに手押ししてから衣文掛けにつるした衣類は布地がぴんとしていて、朝が気持ちいいと想えることのひとつになっている。
 暮らしていくことは音楽の好みのようなわけにはいかない。好きになれなくても放っておいていいものじゃない。好きになれないものは少し変えてやるといいのかもしれないと想うようになった頃から、毎日が違ってきた。アイロンもアイロン台も今では部屋の隅に行ってしまったけれど、憎々しいとさえ想っていた頃とは違う眼で見られるようにもなった。
 変えたいことはまだたくさんあるけれど、其れを考える時間も愉しい。使い勝手のよさは其の家によっても其の人によっても異なり、ひとつひとつ自分で探していかなきゃならない。
 昔とうさんがよく棕櫚の葉で箒を作っていた、と想っていたけれど、もしかしたらあれは蠅叩きだったろうか・・・。そんなふうに記憶は曖昧になっていくけれど、幼少の折暮らしていた家には家に似合うものがたくさんあった。ともだちの家には無いものが多く、なんだか恥ずかしいと想った頃もあったけれど、今では或の家で暮らしたことを宝物のように想っている。最後にどんな家で暮らすのかわからないけれど、いつか死ぬときにでも愉しい暮らしだったと想えたらいい。

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 バスを下車した男性は振り向くと、バスに御辞儀をした。運転席からよく見えるとも想えず、運転手が見ていたわけでもない。胸の内に清々しい気持ちが生まれ、眠気で重かった頭は幾らか軽くなった。
 弐、参日前近所の小さな橋ですれ違った女性にも、同じような気持ちになった。ふたりとも自転車に乗っていた。遠くからでも女性が老齢と判ったので自転車の速さを歩くよりゆっくりにし橋を渡ろうとすると、女性は橋の手前で自転車を降りた。それで会釈し急いで渡ろうとすると、女性の方も会釈をした。橋を渡りきる辺りでもう壱度女性に会釈をしすみませんと声を掛けると、女性からも会釈とすみませんの言葉が返ってきた。もしかしたらあたしが渡り切るのを待つ為にだけでなく、橋の手前の僅かな段差に自転車を降りたのかもしれない。女性のまるまった背にそう想いながら、胸の内で気をつけてと声を掛け、橋を後にした。
 相手が自分に何か働きかけてくれれば、自分にも礼が出てくる。けれど、特にそうでなければそう云う気持ちにならない。バスを下車する際、一応礼の言葉は述べてはいるけれど、或の男性のような礼をしたことが自分にあったろうか。日常の中であたしが忘れ、埋もれさせているものは少なくないだろう。道を歩いていても、道幅いっぱいに歩く家族や談笑で夢中になっている会社員の男女たちの方に眼がいってしまいがちだけれど、当たり前のことをないがしろにしない人に眼がいく者になっていきたい。明日には此の想いを忘れてしまっても、いつかまた思い出せるよう日々を過ごしていきたい。

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雪の日


 急に外は静かになった。結構強い降りだった雨は止んだのだろうかと雨戸を開けると、ちらちらと動く小さな白いものが眼の前に現れた。
 予報通り雪になった。拾壱月に降る雪は、赤と黄に染まった町をあっと言う間に変えてしまう。

 なんで雪が降ると胸の内が静かになるのだろう。そうしてひとりで笑うことができるのは何故だろう。それから、おかえりと耳元でささやく声は何だろう・・・。其れが不思議で仕方なく、いつものように外を歩いたけれど、今回も答はみつからなかった。けれど其れでいいのだろう。
 雪の日は、(たぶん)乗り捨てられた自転車やブルーズの記憶や死んでしまった猫が傍まで寄ってくる。歩くときはみな一緒だ。雪の日に忘れ去られたものはなく、みな世界に抱かれている。嗚咽を漏らすほど苦しかった過去も、一緒になりおとなしく歩いている。だからだろうか。死ぬときは晴れた日より、こんな雪の日がいいと想ってしまう。
 青空を見ると今でも胸が逸る。けれど、壊れた玩具には其れが辛く、躯を引き摺りながらでも歩ける雪の日に安堵する。其の方が青空の突き刺さる痛みより、痛みが強いのに、どうしてだかやさしいと感じてしまう。雪の日の痛みは焦げた匂いのする胸の焼けた痛みだ。ブルーズの歴史について書物を読んだあとで聴き直したブルーズに感じた痛みにも似ている。
 泣きながら笑うことを覚えたときから、あたしは自分自身と随分距離を短くした気がする。

 ふんっ、と冷えた空気を鼻で吸うと、雪の温度が躯の中に入ってきたので家まで持ち帰ることにした。或の木造の古い家なら、家ごと一緒に歩いてくれる気がした。

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