日々の雑感、他愛ないこと。印のように記してみたり。日々の呼吸を此処に。 忍者ブログ

窓掃除


 やっとすっきりとした晴天になったので窓掃除をした。雑巾が真っ黒になり棄てるしかなくなった。窓より窓枠より外に付いている格子が壱番汚れる。雨戸も外側より内側に付いている木の枠が壱番汚れる。何かいい掃除道具があるのかもしれないと想いつつ、いつも雑巾で水拭きをする。壱度で真っ黒になるので壱番汚れた雑巾を使い、終わった後は棄てている。何の道具を使っても結局掃除を終えれば棄てることになる気がするので、雑巾でいいのかもしれない。かと言ってアパートの壱室のようにはいかず、そうそう窓掃除できるものでもない。
 玄関の上がり口を掃いたり軒下の蜘蛛の巣を払ったり、ときには通りに散乱した(たぶん鴉が突いてそうなった)塵を片付けたり(此れは余りにも酷い時があり、塵袋こそ家に置いてあるものを持ち出すが、箒とちりとりは家に置いてあるのを使うのがすっかり嫌になってしまい塵置き場においてあるものを持ってきて使っている)、と結構掃除する箇所が多く、壱日に掃除はどれか壱箇所になっている。其れにアパートの壱室ほど埃は積もらないが、想った以上に埃が積もる。廊下に毎日親指の爪ほどの綿屑のようなものが落ちているのには驚いた。とうさんの考えた家のようにはいかない。其の分寒い家ではないのだろうが。
 それでも硝子戸壱枚の大きさが通常の1.5倍もあるような家に風が入ると、極楽鳥でも通り抜けたような気がし眼で追ってしまっている。

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青い鳥


 ひとりぼっちだと想っている子は星の数ほどいるだろう。そして星の数ほどいると知ってもひとりぼっちがなくなるわけじゃない。
 壱日壱話づつ読もうと想ったのに、重松清の「青い鳥」を読み始めたら結局其の日のうちに読んでしまった。ひとりじゃない、なんて云うのは其の人の想いだからそうして傍に来られてもあたしはそう想わないけれど、ひとりぼっちとひとりぼっちがたまに逢ったり話したり、弐度と逢えなくても其の人が忘れられない人になるのは好きだ。

 炬燵を片付けた和室に珈琲カップを置く卓が欲しくなり、以前雑貨屋で見た軽くて簡単に脚を取り付け組み立てられる卓を買ってきた。そして珈琲カップを置く前に、「青い鳥」を乗せた。
 「青い鳥」を読むと、高校のときクラスが一緒だったMくんを思い出す。静かでやさしそうな人だと想っていたけれど、特に気に留めるでもなかった。Mくんは利き手を治され吃音になったと聞いたことがあったけれど、そんなふうにMくんが言葉を発するのをあたしが聞いたのは壱度だけだった。其のときあたしは机の下で両手をぎゅっと握っていたのを何故かはっきり憶えている。卒業しクラス会が何度かあった。行きたくなかったけれど家の近くの店が会場になることが多く毎回欠席できず、其の日出席するとMくんが来ていた。あたしは高校も無口で通したけれど、後で知ったことには何故かすごぶる頭の切れる人に想われ男の子は特に怖がって眼も合わせられなかったのだと云う。なのに其のとき彼はあたしに、可愛らしいアイドルの内気な女の子の気持ちを綴ったような歌をうたったらと勧めた。冗談でもなくからかっているのでもないのは、彼を見ればわかった。
 例え間違っていたにせよ、自分の眼で物を見て決めることをあたしはMくんに教わった。「青い鳥」に出てくる先生はあたしの中でMくんと重なっている。

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草色の


 草色のカーディガンの編み直しを始めたのはいつだったろう。暖かくなるにつれやる気が失せていき暫く手を付けずにいた。また少し気温が下がったのを機に始めてみると、想ったより進みがよくあとは釦付けを残すだけまでとなった。但し釦穴の数をひとつ多くしてしまい、色が色だけに陸個必要な釦をどれを使うか決めるのに頭を悩ませることになってしまった。
 あたしのすることだから・・・。此の科白は自分にとりすっかり魔法のような言葉になった。何かをする都度何かを作る都度此処まで不恰好でいいのだろうかとも想うけれど、失敗を恐れないのや初めからできないなんて想わなくていいのも明らかに失敗作だったにしても過度な落胆をしないで済むのが愉しい。
 やればできると訳も無く励まされたこともあったし、此れがこうなのだから本当はきみはやればできるのではと言われたこともあったけれど、やればできると云う言葉であたしの意欲がかきたてられたことはなく反って気持ちは萎えた。
 自分のやり方をみつけることはなんとも難しかったけれど、自分のやり方をみつけるってこう云うことかと知ったときは本当に安堵した。
 草色のカーディガンが仕上がったなら、重松清の「青い鳥」をまた読もうか。

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薔薇の香


 町を歩くと薔薇の匂いが鼻をつくようになった。少し甘すぎる感があるものの、厭な匂いではない。蔓を絡ませ弐階建ての壁を壱面覆う赤や黄の花を咲かせた薔薇をみつけたときには随分凝った家があるのだなと驚いたけれど、曲がり角を間違わずに済むいい目印になった。
 越してきて壱年半経つのに未だに道をよく覚えられない。左右が混乱するのには困ったもので何本目の道を右になどと云った具合に道順を覚えることができず、また方向音痴でもあり高い建物が見えなくなった場所に入るとどちらへ向かっていいか見当がつかなくなる。匂いがあれば、其れを辿り、何処へ歩いていっても日が暮れるまでには帰ってこられる気持ちになる。そんなふうだから佰回くらい通ったであろう渋谷公会堂への道も判らなくなるんだ、といつかのことを思い出し苦笑したけれど、薔薇の香があるうちは、大丈夫、だなんて気持ちに酔いしれていよう。用事さえなければ、参日だろうが肆日だろうがきっと彷徨っていてもあたしは笑って歩き続けるのかもしれない。

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がんばれがんばれ


 冬物は全て洗い終えたと想っていると、明日クリーニングに出そうと掛けていた衣類の後ろに壱枚残っていた。膝掛けはまだ使うから残しておこうかと考えていたけれど、一緒に洗ってしまおう。冷えた日は綿毛布にくるまればいい。子供用のトトロの柄の綿毛布は小振りなだけに使い勝手がいい。余り使い勝手がいいので真夏用のガーゼケットを子供用のを購入してしまったくらいだ。
 もう少し背があったら洗濯物を干すのにやっとと云うこともなかったろうにだとか、棚の上に乗せたものを取るのにいちいち踏み台を持ってこなくても済むのにだとか、洋服を直してばかりいるだとか、以前は悲しくて怒ってばかりいたような気がするけれどいつのまにか其れが無くなっている。きっと急いで済ませなければと云う気持ちを失くしたせいだろう。
 頑張ることが嫌いじゃなかった。結果できなくても(そう云うことの方が多かった)、頑張ったのだし不器用な自分のすることだし此処までできたのだからと自身に言い聞かせることができた。頑張らなくていいと云う言葉はいつから今のようにこんなもと感じるくらいに使われるようになったのだろう。誰かにとっては救われたような気持ちになることであっても、誰かにとっては辛くなることもある。政治が変わる都度制度が変わる都度何かが改まる都度其れは感じることで、あたしにとり頑張らなくてもいいと云うのが正に其れだった。自身を否定されたような気持ちにさえなった。是が良いと何かが流行り世の中其れ一色に染まったのではと感じられることも少なくないけれど、其れは同時にひとりひとりが失われることだったりするのかもしれない。
 時々思い出したように耳の内にSIONの歌を大音量で鳴らし、急いでと云うことは無くなったけれどやっぱり自分はこっちの方が気持ちが朗らかになると上を向き気持ちを鎮めている。

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