日々の雑感、他愛ないこと。印のように記してみたり。日々の呼吸を此処に。 忍者ブログ

風の具合


 昨日のみつけたのはナナカマドの枝だと判った。北海道の文通相手が度々手紙に書いている。けれど此の辺りで見たことはなく、手紙に、ナナカマドが咲いて、の文字を見る都度調べている。家の庭にでもないとあたしは覚えられない。
 ブーゲンビリアだの梔子だのの鉢植えも花屋に入ってきたけれど、何せ立派過ぎる。珍しく薄紅色のブーゲンビリアが入っていたこともあり、もっと小振りなものでいいのに、と思い出すとまたふくれてしまっていた。

 外は急に風が出てきたけれど天気が崩れそうな気配は無く、カーテンを大きく揺らす風はひんやりして気持ちよかった。
 畳にカーペットを弐枚縫い合わせ敷いているものの、昔ながらの大きさの畳に足りず、夏は窓際に竹のラグを置き畳が傷むのを防いでいる。畳職人だった伯父が生きていればいろいろ教えて貰えただろうにと想うとちょっと淋しくなる。跡を継いだいとこには何故か教えて貰おうと云う気持ちにならない。ちらっと聞いただけなので詳しいことはわからないけれど、今は職人と云う言い方を嫌う人が多いと聞いた。あたしは職人と呼ばれる人が好きで其の人たちを職人さんと呼ぶのが好きだ。いとこはどうなのだろうと想うけれど、齢も結構違いそう云うことが気軽に話せない。きっとそう云うこともあるだろう。
 竹のラグは足元を涼しくさせる。外へ続く硝子戸からいい風が入ると其れは尚更で、竹のラグに正座し珈琲カップを置く為に買い求めた小さな卓で手紙を書きたくなってしまった。
 風の具合で喜んだり困ったり、風でふと何かを思い出したり改めて何か想ったり、あたしの具合が違ってしまう。カーテンが捲れ上がったとき一瞬、おおい、と世界に呼び掛けたくなったけれど、目の前にあるのは近所など全く気にすることなかった廣い庭でなく建ち並ぶ家屋だったので、慌てて開き掛けの口を閉じるに至った。

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俄か雨


 急に降ってきたかと想えば突然空が明るくなる、そんな雨を参、肆度繰り返し陸月は始まった。

 白い花をふわふわとつけた枝が売られているのをみつけ傍までいくと、名札にドウダンツツジとあった。あたしが知るドウダンツツジとはだいぶ花の形が違い、また値段の方も桁が違ったので手は出さずに帰った。いったい或の樹木は何だったのだろう。気になって調べてみたけれど、似たような花を付ける樹木が沢山あり判らなかった。名前なんて知らなくてもいいのだけれど、名前を知らないと探せないのが厄介なところだ。
 此処一週間ばかり迷っていたスグリの枝も買わずに帰った。名札が付いてなかったらスグリだとも気付かなかったかもしれない。そんなだから緑色の実を見ただけではどのスグリか全く見当が付かない。今日覘いたところではひと粒赤く染まっている実があったので黒すぐりでないことは確かだろう。
 ・・・雨を眺めながらそんなふうにずっと樹木の枝のことばかり考えていた。植物、と云うのが廿代前半の頃のあたしのなりたいものだった。今は其れとは異なるけれど、たいした違いは無いように想う。どれを選んでも昨日から今日、今日から明日へ(滅びることも含め)時を繋いできたものには違いない。

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啄木鳥を見た日


 ひなげしには間に合った。赤い色が陽に透けるのがきれいで太陽の方ばかり向いていたから灼けてしまったようで顔がひりひりしていた。
 腹が減り咽も乾き木蔭にシートを敷きしゃがんでいると、とんとんとんと樹木を叩く高い音が耳に入った。すぐには其れが何だか判らなかった。なにせ啄木鳥に逢ったのは初めてだった。もっと大きな鳥だと想っていたのに啄木鳥は案外小さな鳥だった。本当に嘴で樹木を、其れも結構響く音をさせ突くのだと、目の前の出来事に感心せずにいられなかった。
 自分と同じ人間以外の其れまで見たことのない生き物に普段の暮らしの中で出逢うと嬉しくなるのは何故だろう。此の家に越してきて百足を初めて見たときは、仰天した。もう弐度と遭遇したくないと想ったし、洗濯機を買い換え排水口がぴったり塞がったのでもう出てくることもないだろうし、恐怖感でいっぱいにはなったけれど、頭の片隅に初めて見た嬉しさもあることは否めない。生きていることや動いていることや命は簡素にあたしに働きかけてくる。
 啄木鳥にまた出逢えるだろうか。それとも此れが最初で最後だろうか・・・。家に帰るまで胸はいっぱいだった。

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棄ててしまう紙に


 今年もたいして櫻の柄の便箋を使うことなく終わった。藤の柄に至っては全く使うことなう季節が過ぎてしまい溜息と共に棚の右に移し、壱番左にきた蛙や金魚や朝顔の柄の便箋を手に取り此の夏は・・・と想うものの、いつもと同じように日々は過ぎていくのだろうか。
 破った暦の裏に新聞広告の裏に落書きをしてはまるめて棄てる文字や絵はあとで思い出すこともなく自身の内に溜まることもなく、ただあたしの表面を軽く撫でていくだけだろうに途切れることはない。
 言いたいことがそうそうあたしには無い。名前も趣味も何処で生まれ何処に住んでいるかなど特に話そうとも想わない。主張するなら、他愛無い話を聞く耳を持ちたいと想っているから、自然とこうなったのだろうか。
 時々、川の傍に咲いたひめじょおんのやわらかそうな花のことや水を飲みに寄った鳥のことや木造の家に入ってくる午後の風がひんやりしていることや、そう云う他愛無いことを口にしてみたくなる。時にはひとつのことで頭をいっぱいにしてしまうときもあるけれど、大抵はそんふうにいろいろなことを少しづつ想って生きている。其れはあたしにとってかげがえのないものだけれど自分の胸にしまっておけばいいもので、特に他人に話すことでもないだろう。日記にしてみたり手紙に書いたりしているとき、棄ててしまう紙に書いているのと同じような気持ちになったりもするけれど、其れは言いたいことでなくちょっと届けてみたいと云うことだから。
 棄ててしまう紙に毎日毎日(大抵は朝)綴る文字を花束のように束ねられたらと想う。花はよく見るひめじょおんにしろつめくさにたんぽぽにつゆ草に・・・、其れを麻紐でぐるぐる縛ってコップに水を入れ窓辺に飾りたい。花束は壱日で萎れてしまうだろう。其れでいい。あたしは毎日毎日少しづつ小さな花束を作りたいのだから。

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雨音


 雨が降っても蒸すわけでない頃が壱番いいのかもしれない。雨音を聴きながら文庫本を開くととまらなくなり、眼が真っ赤になるまで読んでしまった。
 だいぶ歳月が流れたけれど、あたしは今も糞真面目で面白味に欠け洒落たことがひとつもできずつまらない人なんだろう(其のくせ結構危ないことをしたりもするけれど)。けれど、つまらない時間があればなにかみつけてくるし毎日つまらないと想ったことはない。
 人は不思議だ。つまらない人と言われる者が決して毎日つまらないと想っているわけでなく、誰かをつまらない人と言った者が毎日つまらないと想っていたりする。
 雨音が耳元を過ぎていく。あれもあれも・・・もう過去になり何かの拍子にふと思い出すことはあってもあたしに引っ掛かるでなく雨音と一緒に過ぎていってしまった。雨音から抜け出し傍まで来てくれるのは、やっぱりとうさんとか猫たちとかいいものばかりで、窓からちょっと外を覗き、あたしの胸の傷はいい傷だよ、なんてつぶやいて笑っていた。

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